岩津城址の見どころ

 現在、地元のボランティアの手によって整備が進みつつあります。荒れ果て、人の訪問を拒絶してきた岩津城址が600年の時を経て私達に語りかけます。今日は皆様を松平氏二代泰親、三代信光の世界にご案内します。

【南郭南側土塁】【南郭】【土塁】
 岩津天神側からの進入路が、城の南側斜面を横切ると、登りきると小規模な踊り場に出ます。ここが城の正面、「南郭」です。浅い空濠を隔てて比高10mを越える見事な「土塁」列が目に飛び込みます。まさに城は『土』が『成』って出来上がったと頷きます。この土塁,東端が高さ74mを越え、岩津城では最も高所です。当時「櫓台」があり、信光明寺の森越しに南側から押し寄せる敵に抗したことでしょう。西南に視線をやると信光が夢見た安祥城を望むことができました。


 踊り場からは真っすぐ西に向かいます。戦国の世、松平一族の偉業を見下ろしたかのような桜の古木が道を塞ぎ、その横をすり抜けます。右手の空堀が多少深くなってきました。間伐された竹林越しに土塁列が東西に延び、土塁、空濠のうねった土肌は、一面が竹の枯れ葉で覆われています。竹間を抜けた光が、木洩れ日となって地面に影を落としています。
 空濠に沿って見事な二本の竹レールが敷設されています。城整備にあたる元気な老人達が伐採した竹、雑木を踊り場まで運ぶことを目的に敷設したトロッコ軌道です。キンマと呼び、岐阜の山奥では最近まで使われていた方法だそうです。

【主郭】【馬出】【虎口】
 ほどなく、道は分かれ、石仏が鎮座する右道を進みます。途切れた土塁に沿って南郭を巻くと、少し急坂を上がります。南郭と「主郭」を繋ぐ土橋の袂に出ます。振り返ると、これまで南側から眺めてきた土塁列を逆方向から見ることとなります。南郭は城の防御と攻撃に有効と言われる「馬出」としての性格を持ちます。当時の馬の鳴き声、甲冑の触れ合う音、いきり立った公達の人いきれが聞こえてきます。土橋を挟んで左右(東西)は規模の大きな空濠が姿を見せます。20m程の土橋を渡り、左右の土塁間の「虎口」を進んで主郭に入ります。


【曲輪】【枡形】【竪堀】
 直径50m程、円形で竹は皆伐されています。数本の20mを越えるクヌギでしょうか、天を突いています。南側の端には戦前、愛知県が設置した石碑『岩津城址』がすっくと立っています。主郭の周辺部はなだらかな数mの斜面がリング状に取り囲んでいます。「曲輪」です。こうした曲輪は一部を除き主郭を3層にも取り囲んでいます。西側には「枡形」や「竪堀」が見られます。当時としては最先端の防御システムです。
 主郭は外界から隔絶された空間、微風が肌に気持ち良く吹き渡ります。主郭にはベンチが設置されています。腰を下ろしてみましょう。ボトル内に岩津城の歴史をまとめたチラシが丸めてあります。手に取り、しばし岩津松平氏の活躍から600年の時の移ろいを振り返ってみましょう。
 汗を拭いて帰途に就きます。先ほどの土橋を渡って、南郭に入り、左に折れ、進入した時とは逆の道筋を進みます。あの見事な土塁の後背緩斜面を空濠に沿って東に進みます。緩い坂道を越えると、野仏が物言わぬやさしい姿で、私達を送ってくれました。